十殿権現のエロ画像
by 日本神話おたく(仮)
⭐︎⭐︎本邦初⭐︎⭐︎十殿権現のエロ画像です♪
楽天のアメジストの広告が元ネタ。たぶんあれオナホの内部構造…
東日本に十殿権現というローカルな神がいます。ジュウトノ・ジュウドノ・ジュウデン・ジュウドン(重殿、住殿、種殿、従殿、充殿)、ジュドノ(種殿)、ジュウド(十度)、ツウデン・ズウドノ(通殿、重殿)、ズドノ(頭殿)、ズド(津門)、ショウドノ・ショウデン(承殿、丞殿、亟殿、昇殿)、ジョウドノ(尉殿、錠殿、承殿、丞殿)、ゾウドノ・ゾウデン(蔵殿、増殿、象殿)、ソト?(曽登)とも呼ばれてるそうなんですが、これがけっこう一筋縄じゃいかないんですよ
単語から整理しましょ。地名はあまり扱わないことにします
noteのPacificosというブロガーの2023年9月19日の投稿によると、裏日本方言にウ→オという音変化があるそうで、図3によると<茨城や埼玉もそこに含まれる>らしいっす。wikiの裏日本方言のページによると東関東や西関東はウとオの混同×になってるけど
「新編武蔵風土記稿 新座郡之四」三頁(国会図書館デジタルコレクションでもログイン不要だが、Wikimedia commonsで閲覧なら、新座郡之四を含むタイトルの5ページに書いてある。古い版は47ページ)によると、柳瀬川と新河岸川の合流ポイントである志木市の引又河岸に、十殿権現があったらしいです。祭神は岡象別。国会図書館でログインすれば閲覧出来る「志木風土記 第9集」45コマによるとオカジワケと読むそうで、46コマに掲載されております「館村旧記」に、「水神(中略)是ハ尉殿権現といふ俗ニ 十殿権現といふ又ハ。徒゛うどの権現といふ」とあります。「俗に」なのでジョウ→ジュウであることがわかります。「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」283コマによると、志木市本町の敷島神社の祭神の一柱、罔象女大神は引又河岸の無格社水神社を合祀したものだそう。つまり、敷島神社は十殿権現=岡象別を祀る神社の一つで、本来の祭神は罔象女ではないわけです
ですが「志木風土記 第5集」の78コマに掲載されております「館村古今精決集録」によると、「十殿又ハえうどの権現ト云フ。近頃ヨリ尉殿ト云フ」とありますので、ジュウ→ジョウであるとも言えそうです。ならズウ→ゾウもあるかも?
wikiの東関東方言のページによると拗音の直音化というのがあるらしいです。徒も「す」の変体仮名で「又は」なので、十殿→徒゛うどの。ジュウ→ズウ。ならジョウ→ゾウ。「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」 419コマでは「ずうどの」とカナが振られてて、「崎玉郡之二十」九頁63ページ/25ページだと「ゾウ殿」になってる行田市中里の蔵殿権現については、
ジュウ→ズウ→ゾウ
としておきます。時系列が変ですが。また1882年に完成の「武蔵国郡村誌 第4巻」39コマでは所沢市林の重殿神社のある地区の字重殿原をジウドノハラと読ませてますが、1804年から1829年にかけて作られた「入間郡之二」十二頁36ページ/66ページはズウトハラと読ませているようです。これについては日本書紀と古事記の8年の違いに近いかもしれません。また日立市田尻町や同市十王町の種殿神社がジュウドノと読ませてるので、ジュウ→ジュ(シュ?)と詰まるらしいです。ならズウ→ズ
なら系統樹は、
ジュウ→県央地域:ズウ→ズ
→ゾウ→曽(ゾ?)
→茨城県北:種(ジュ?)
→ジョウ→ゾウ?→ゾ?
ということになるかと。ジュウドノ・ジュウトノが一番古いことになります。頭殿や通殿が埼玉県央地域の周縁部に多いのがミソで、その辺りは発祥の地じゃねえなってことに
wikiの裏日本方言のページによると東京方言でも中舌化というのがあるらしいです。太平洋側はズーズー弁だからジ→ズかな?でもジがどこから来るのかやっぱわかりません。ズ→ジなら、ジュウ→ズウ→ズ→ジと説明できるんですが、そうじゃない。常陸大宮市の地殿神社は「地殿神社略記」によると地頭殿から改名したものだそうで、もしかしたら無関係?
「志木風土記 第9集」9コマによると、旧利根川以西では応永十年(1404)の「村田村(中略)充殿御(神田)口所」というものが最古のジュウドノの記録らしいです。もしそうならジュウドノ・ジュウトノが一番古いっていうのは案外当たっているかも知れません。原文は「群馬県史 資料編5」127コマで読めますが、太田市新田市野井町の新田荘遺跡の重殿水源のじゅうとの様のことかと
ここを発祥の地としてみます
ジュウドノは高麗川沿いでは高麗明神や白髭大明神と習合してるみたいです。adeacで検索すればログイン不要で閲覧可能な「鶴ヶ島町史 通史編」によると高麗明神は日高市の高麗神社の祭神で、白髭大明神とは別の神なのだそう。「志木風土記 第9集」の48コマによると、Amazon坂戸FCのあたりに尉殿という地名があって、由来は聖天だそうで、堤防の近くに坂戸市中里の大宮神社の旧址があって、それが大宮神と白髭大明神の二基の石碑なのだそうで、大宮とは高麗神社のことなのだそう。つまり高麗川大橋の西側の話。これが「坂戸風土記 第15号」28コマになると、高麗川大橋の東側の水田の一画の榎の木の辺りに、聖天祠と大宮神・白髭大明神の石碑があるらしく、白髭大明神の裏に「昔から浄土野に鎮まり」と書いてあるそうな。1989年の出版で、地理院地図の1986年ごろの航空写真を見たら「ふるさとの湯」辺りがまだ水田だったので浄土野はその辺りの事かもしれません。地元優先で、白髭大明神は橋の東にあったと考えたいところ。中里の石仏石塔群に現存してるかもですし、浄土野=尉殿か、右岸浄土野で左岸尉殿かわかりませんけど。「第15号」の28コマによると、坂戸市横沼にズウノ下という地名があり、ズウはズウドノの事らしい。その南に沼自害田、その西に白髭神社の御手洗(つまり水辺)があり、参詣者がここで死んだそうやで。自分の参拝客を自害させる神格って何……やばくね…。祟り神?
「志木風土記 第9集」の49コマには「保谷の尉殿権現社の旧地付近の古くからの住民が信仰していたのは白山さんだと言う」とあり、同書の47コマによると、朝鮮人姜大興墓で有名なさいたま市見沼区の常泉寺の裏山にかつて重殿権現社があり、その木札に神名として白山妙理大権現が併記されていたらしいです。現在、北方約100メートルに移築されているそうで、ちょうどその辺りに八雲神社と氷川神社があります。八雲神社は染谷観音堂が前身っぽく、そのさらに前は安養寺であったっぽい様子。氷川神社の方かもしれませんね
「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」153コマにも「聖天を祀る深谷市本郷の藤田神社の獅子舞は象殿池まで行く習わし」とありまして、おそらく聖天が象なのとかかってますよ。場所は深谷市の農業用ため池マップ(PDF)でけんさくけんさくぅ!
また日高市の聖天院は要するに高麗神社の別当寺なんですが、「なこその民話」p93に記載の塩田の昇殿神社のさかさ竹は、「植田町史」p277では塩田の須田家所有地の聖天の倒さ竹になっています。聖天は「しょうでん」と読まれる場合があるので、同じものを指すとのこと。「福島県史料集成 第2輯」p755によると塩田村の羽黒神社(出羽神社のこと?)除地、地蔵(子育地蔵尊?)除地の順に聖天除地とあり、順序は西→東ぽい。昇殿神社はいわき市東田町小字塩田前にあるのかも。その辺りに須田さんがいたら大当たりですが
聖天も白山も「併祀」や「地名」でしかないんですが、どっちも本地仏が十一面観音。茨城のジュウドノの淵源が十一面だったら、戸隠山の九頭竜も十一面だし、龍蛇神かつ内陸部に生息の女神である理由がはっきりしてくるんすよね。「田無地方史研究会紀要Ⅲ」p19の「慶安縁起」によると、西東京市田無町の田無神社の仏教での本地は倶利伽羅不動明王だが神道での本地は十一面観世音、とあります。どっちも仏教だろというツッコミは無しで。「足立郡之二十一」二十四頁26ページ/26ページにも「戸田市美女木の重殿権現社は十一面」とあり、「あしなか第百八拾壱輯」7コマにも「朝霞市の内間木神社(重殿権現社)の本地仏は十一面か?」とあります
「郷土ひたち42号」p43にも日立市十王町高原字日向のジュウドノの本地仏は十一面だとありますが、たぶん種殿神社のことかと
「十一面 一を引いたら 十殿様」、どっすか
でも関東では聖天信仰とも関わってる白髭信仰が東京低地にもあって、そっち方面がジュウドノじゃないのは確か。聖天をまつる金龍寺と関係なくは無い浅草寺の観音が、飯能市の岩井堂から流れてきたという伝説があるらしいのですが、ジュウドノに漂着神の要素はあんまり無い
フカダソフトって会社のきまぐれ旅写真館というブログが九頭竜信仰との関係も考察してます。ブログの方は閉鎖したようで見れなくなってて、ウェブアーカイブでご確認ください。確かに白山比咩神社においては祭神の妙理大菩薩の方便が九頭竜ですし、万巻が芦ノ湖に封印した九頭毒龍や、三島大明神に相当しそうな人物が退治した三宅島に襲来した大蛇も、その正体が大蛇になった霊鷲御前の母親っぽいです。女神の九頭竜権現は確実に存在しているということになります。これらは茨城北部以北のジュウドノが女神なのと関わってるのかもしれないですが、でも白山や箱根山がジュウドノ発祥の地だとは思わねーっす
「紀要Ⅱ」p22によれば「日向国小戸橘檍原の尉殿明神」は特定出来ず、「紀要Ⅲ」p23によれば「肥前国吉備朝嶺の戸挟大明神」と「摂津国西ノ宮摂社の尉殿権現」と「武蔵国三峯山の浄土権現」も特定出来なかったと明かしています。「慶安縁起」と「元和縁起」はまとめてポイーなんですが、つまり西日本に発祥の地を求めることは難しいし、三峯山のような関東の西端も違う。日高市を発祥の地とするのも、高麗明神は大磯高麗権現(=南山熊野王子?雷電八大金剛童子?杉鉾別??白道明神??五十猛???駒形大神???)と同一らしくて風呂敷が広がりすぎになります。高来山とか伊豆山とか関係なさそうな地域まで視野に入りそうなのさ違うかなと。てことは箱根山もそう
熊谷市妻沼の聖天山歓喜院長楽寺、通称・妻沼聖天山に注目してみます。ここ、緑区の氷川女体神社と関係あるっぽい
なぜいきなり氷川女体神社??かというと。
HUNTER’S LOGというツイッタラーの2015年02月03日の投稿によると、ジュウドノは見沼の竜神と何か関係があるようです。龍学というブログの方で詳しく触れてるのですが閉鎖したようでweb achieveでも見れなくなっててtwilogでその片鱗が見える形となってます
と言うのはwikiの見沼の竜伝承のページによると、オタケ様という見沼の竜神が伊奈家を祟ったり、竜の彫刻を同市緑区の国昌寺の門に置いたら見沼の竜が暴れなくなったという「釘付けの竜」の話などがありますが、そういうのがジュウドノにもあって。北足立郡伊奈町の頭殿権現社が伊奈氏屋敷跡であることが一つ(ツイッタラーは伊奈氏自体に見沼・氷川の龍蛇信仰と結びつくような蛇神信仰があった、と考えているようです。つまり諏方、伊奈=伊那)。「さいたま市緑区お宝100選ガイドブック」(ググって閲覧して)によると大門神社の境内社に愛宕社というのがあって、そこに「釘付けの竜」を納めたところ愛宕社の崖下の池の竜が暴れなくなったというものが一つ。大門神社の東側に中川低地の崖線があって、そこに沿って綾瀬川の支流の天久保用水が流れてたり、崖下というにはちょい離れてますが大門下池調節池もあって、池もあったかもです。それでその崖線沿いに緑区の重殿社があるってなもんで。宅地開発で景観がおぞましいことになってます。よかったらGoogleマップでみてみて下さい。ちな東京低地で言う中川は旧利根川最下流、中川低地で言う中川は太日川下流のことになるようです
でも同一の神格では無いかもです。「伊奈町史 民俗編」p441によると頭殿権現社は雄堂様とも言って、蛇が原市沼川の対岸の原市の雌堂様との間を行き来していたそうで。「日本の伝説18 埼玉の伝説」14コマによると、愛宕社崖下の池の竜も雌雄二匹だったそうで、これも雄堂様と雌堂様なんでしょうね。池の外に出ないように毎年七月二十七日に池の周りに酒肴を供えてたそうです
wikiによると見沼の竜は雌っぽいんですが、見沼区の宗像神社に伝わるお宮弁天の話から、雄の竜も生息していたかもしれないです。もちろん雌の龍蛇がお宮を嫁に、という展開かもしれない(というかまつら長者系とでもいうんでしょうか?蛇神の生贄となった少女が蛇神に転生・代替わりして、新たな生贄の少女を要求するという悲劇の連鎖的な)。ですが雄であるらしいつなが竜ヌゥの元ネタは見沼竜神社の祭神であるそうで、氷川女体神社では見沼竜神社と主祭神はイコールではない、としているみたい。だから見沼には雌雄二匹の竜神がいると考えることも一応は可能です
ですがそもそもさいたま市大宮区の氷川神社の蛇の池が本当に過去、見沼の源流と見なされていて、そこが本当に信仰の発祥の地であるなら、見沼に龍蛇魚類爬虫類信仰があるんだから、主祭神も龍蛇神であるとしてもいいはずです。だからこそ「原市氷川神社縁起」が雌堂様は上尾市原市の氷川神社なんじゃねと示唆しているんじゃないかと。そして雌堂様と言うぐらいなんだから、氷川神社でも男体宮ではなく、女体宮の方か、それか氷川女体神社の祭神じゃないかなと思われ
ちな「原市氷川神社縁起」には「もともとは天王社だったけど明治時代に氷川に改称されたらしい」とありますが、「足立郡之十九」三頁5ページ/43ページに「吉野領原市村の長久寺持ちの氷川社」が書いてあるので間違いかもしれません。「上尾の神社・寺院」24コマに「新編武蔵風土記稿には原市・氷川神社の記載がない」とありますがこれも違うと思う
さて妻沼聖天山なんですが、「妻沼町誌」p785(ググってuntitledをクリック。検索機能使えません)によると聖天が太田呑龍(太田市の大光院)に松で目をつつかれた話があって、p786に「雉子は聖天様の眷族」とあります
見沼にも氷川女体神社祭神の奇稲田姫が戦で片目になってしまったとか、蓮の茎で目を突いて片目になってしまった話(「浦和市史 民俗編」419コマ)があって、氷川女体神社に雉を模した木造鳥魚形祭具があって、「キジは氷川神のお使い」(大谷場氷川神社)だったりします
祭神が「会議」に遅れてササゲで目を突いたという田尻町の種殿神社に伝わる話、高萩市上君田や下君田の十殿神社のササゲの蔓で滑ってゴマの鞘で目を突いた話と結びつけたくなっちゃうねぇ
ちな十一面観音が火事の際にゴマの殻で目を突き片目になったという話が新発田市西姫田に伝わっているらしく(「二王子山麓民俗誌」86コマ)、小千谷市の白山神社にもゴマで片目を突いた話があるらしい(「古代日本精神文化のルーツ」71コマ)ですが、新潟だし無関係
「埼玉県伝説集成 : 分類と解説 中」264コマに「目を突いたのは聖天の帰依者の斎藤実盛」とあって、「大宮市史 第5巻」421コマに「太田道灌がハス田に逃げ込んだ時、雨の音が鉄砲の玉の音に聞こえて怖くなったからハスを作らなくなった」とあります。リアルな歴史が絡んでくるところも似てると言えそうです。奇稲田姫の戦相手が不明なのも、もしかしたら道灌の方が神話の下地なのが暗黙の了解で、敢えて語られなかったのかもね。だいたい一般的な奇稲田姫のイメージに戦女神のイメージ無いですし。逆にそれが萌えかもしれないですけど
そして氷川女体神社の本地仏は調べられた限りだと不明でしたが、見沼周縁部の女体社郡に属していると思われる川口市木曽路の朝日神社の本地仏が十一面です。これに対して、大宮区の氷川神社の本地仏は聖観音。「足立郡之十二」四頁27ページ/27ページの北足立郡伊奈町の氷川神社、「多磨郡之三十五」十五頁30ページ/31ページの中野区の中野沼袋氷川神社、「多磨郡之十四下」十二頁53ページ/6ページの八王子市高尾町の高尾氷川神社など、本地仏が十一面な氷川神社は各地にあって、大宮区のとのギャップがあるわけです。「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」の100コマによると、「藤原細沼本系図」という嘉永四年(1851)の本に「浦和市上大久保の氷川神社の本地仏は十一面」ということが書いてあるそう
一方で「足立郡之七」四頁20ページ/20ページに「中央に十一面、左右に男体女体の二神を祭る」と見え、戸田市氷川町の新曽氷川神社では十一面イコール女体では無いことも確か。まあ緑区の女体宮であって、大宮区の女体宮ではない可能性もありますか?
妻沼に話を戻します
「読書室 | 熊谷デジタルミュージアム」の「「妻沼」ーめぬまー」の項目に「聖天宮縁起によれば利根川の流域に形状の似る二つの沼があった。下の沼は目沼、女沼とも言い、歓喜院境内の女体地内の弁天池の裏の湿地帯にあった。妻沼とはこれのこと。弁天は女体様とも呼ばれ、上の沼、またの名を男沼、オドロマの方に向いていた。上の沼は妻沼工業団地から市立妻沼西中学の裏にある男沼門樋悪水路の上流にかけて存在していた。その近くにも伊邪那岐命を祀る男体様が女沼の方を向いていた」とあります。弁天池の形状が妻沼の名残りみたいですね。ついつい大我井神社の方に目がいってしまいますが、この弁天は重要な古社のようです
男沼門樋悪水路は男沼樋管とも言うらしく、「第14章 防災・河川施設 第1節 排水機場-熊谷市」で位置を確認できます。「熊谷市史研究 第3号」によると妻沼辺りは荒川新扇状地というのの端にあるらしく、男沼あたりは扇状地の外になってて丸くくり抜かれてより低地らしく、これ全部が男沼じゃないとしても、妻沼よりかなり大きいようです。「大里・北葛飾・比企」200コマには「妻沼台の白山神社は両社の中間に位置し、男体様と女体様の憩いの地」とあって、雄堂様と雌堂様の関係に似てると言えば似てます。夫婦だとは書いてありませんが、男体女体といえば大抵そうなので、そう解釈します。雄堂様と雌堂様も同様です。弁財天との組み合わせはチグハグですけど、「泰澄和尚傅 白山縁起」に「天衣瓔珞餝身貴女(中略)吾身乃伊弉諾尊是也、今號妙理大菩薩」とあるので、伊邪那岐ってのは白山信仰から来てるかもですね
「田無地方史研究会紀要Ⅲ」p27に「物類呼称によると四国では白髪の翁を尉殿と呼ぶ」とありますが、「稲荷白「髪」合社=式内白髪神社=大我井神社」っていう話は、原文だと稻荷白「髭」合社になってます(「幡羅郡巻之四」四頁37ページ/38ページで確認してください)。東別府神社は「幡羅郡之二」七頁15ページ/16ページによると本来は春日社で「當社ニテハ此傳ヘナシ」、九頁17ページ/18ページの熊谷市東方の熊野大神社も「社傳ニハ其沙汰ナク、且土人ノ口碑ニモ殘ラザレバ」とある。「新編武蔵風土記稿」で白髪社の記述は、「榛沢郡之三」四頁28ページ/76ページのものが唯一かもです。下原の白髪社ってのは深谷市上原の白髭神社のこと。式内白髪神社はここかも?
「大里・北葛飾・比企」には「女体様は妻沼の白髪神社、男沼の男体様は神明様のことであろう」(209コマ)とあります。神明様ってのは熊谷市男沼225の鎮守神明神社のこと。「太神宮が男体社の境内に祀られた」(200コマ)とありますから、太神宮≠男体社っぽい。「白髪神社はむかし大我井森にあり、字女体の現在地に遷る」(198コマ)ともあって、女体様も白髭大明神とイコールじゃないっぽい。てことは大我井神社は式内白髪神社の論社だけど、稲荷白髭合社である可能性の方があるわけだから、大我井神社も女体様とイコールじゃないのかも
また「大里・北葛飾・比企」の194コマによると、「実盛は治承三年(1179)、大我井の森に聖天社を建立した。実盛の出身地である越前国には空海の巡錫により聖天信仰があった」とあり、福井県は白山信仰も盛んなので、妻沼台の白山神社も福井県からの勧請である可能性あり
・女体様=弁財天がまず最初にあって、そのあとに稲荷白髭合社のうちの白髭大明神=大我井神社が来て、最後に聖天と妙理大菩薩=伊邪那岐が来る
・その後、聖天が全員飲み込んで一人勝ち
っていう流れかもしれない
で、「妻沼町風物史話」38コマによると白山神社境内の曽登神社の祭神は蔵王権現で、もともとは蔵王殿地内(大字台1250番地のこと)という場所にあったそうで。「熊谷市誕生10周年記念事業熊谷市文化財ガイドマップ」によると旧男沼小学校のあたりに今でもあるそうです。大字台(妻沼台の事?)1250番地はその辺りのことのようですね
この曽登って蔵王殿じゃね?ゾウ殿→曽登(ゾド?)じゃね、って思いたくなります
ところで、オタケ様は武蔵国式内多気比売神社かもしれません
狭山市のホームページに笹井のタケが淵のオタケ大日如来水神宮の話があるのですが、そこにオタケが登場します。現在はそこに笹井弁財天水神宮がありまして、見沼の周りにも弁天社が七箇所あります。見沼七弁天=見沼の竜神=氷川女体=オタケ様=豊葦建姫かもしれないわけです。お里とかはなんとも言えませんが、お宮もオタケ様である可能性があるかと
…というのがHUNTER’S LOGからの受け売り
このツイッタラーは比定社の姫宮神社がある桶川市篠津も見沼周縁部に含める勢いでした。個人的には、南埼玉郡宮代町の姫宮神社や北埼玉郡騎西町の宮目神社の関係社かもと考えていて、大宮売や宮目姫が氷川女体と同一というのは無いんじゃないのと思います。逆にそんな有力か?とか。確かに武蔵風土記稿はその道の権威ですけど…。なのであまり言及すべきことじゃ無いと思いますがジュウドノと関連性があるとされる綾瀬川を備前堤で塞いだ箇所の上流に、篠津沼と埼玉の赤堀川がある事は確かです。「荒川と旧利根川流域 今に至る流路の記憶」によると星川との合流ポイントである蓮田市根金より下流の元荒川は星川と呼ぶべき川で(FC2ホームページの「天体・天文・暦・地図・気象 アラカルト」というブログによると1457年以前の話らしい)、桶川市五丁台より下流の元荒川の本流は綾瀬川なのだそう。その辺りが足立郡と埼玉郡の郡境で、だからその辺りが氷川神社と久伊豆神社の祭祀圏の境界なのね…。これは氷川信仰とジュウドノの関連性を示唆してると言えるのかも
ちな「阿波志 11」(徳島県立図書館デジタルライブラリーで閲覧可能。「阿波志 五」の50コマ)にこんな話があります。
曰く「徳島県阿南市の古烏神社は阿波国式内建比売神社である。式内建島女祖命神社の祭神が埴安姫なのは、奈良の畝尾坐健土安神社がタケだからで、これも建比売。埼玉の多気比売もみーんな建比売。恐くは高姫のこと、下照姫とも言う。天探女でもある。特に天探女は神社の社名と関わる」。
現地の由緒書きはもっとシンプルに「建比売は下照姫のこと、豊葦建姫とも言う」としてます。シンプル過ぎて「阿波志」読まないと意味わからないんですが、読んでも埼玉無関係だと思わざるを得ないし、ジュウドノとの関係も不明としかいいようが無いです。だって忌部関係なら千葉市花見川区の武石胤親をまつるおたけ様こと武石神社も実は豊葦健姫、みたいなことになりますよ?確かに千葉にとっての徳島は能登にとっての島根みたいなものだとは思います。でも同じく古文献の「阿府志」(国会図書館、30コマ)には「祭下照姫下荒井村二在俗小鳥明神ト号ス(中略)此伝記不宜カラ故ニ畧ス。建姫ノ建ハ建美那方ノ妹ナルヲ以テ建ト申スナリ案外ナル説ナレハ畧ス」とあって、お茶を濁してるんですぅ
川口市の前川神社も論社なんですが、「足立郡之七」十二頁28ページ/28ページに「祭神は多気津姫」とあって、確かに湍津姫との関係が怪しいんですけど、「前川神社造営事業竣功記念」p5に「天照の伯母の多気比売が川を降ってきた」とあって、川が芝川なら氷川女体神社とか大宮区の氷川神社っぽいかもですね〜でも昔は沼だったからやっぱ違うかーっ!?でも湍津姫なら伯母じゃなくて娘だしなぁ…
…とかそんな感じです
見沼に雌雄の竜がいて、雄堂様=ジュウドノで、雌堂様≒氷川女体なら、オタケ様も竜神なんだから、氷川女体=オタケ様と考えても差し支えないはずです
また、見沼の男女のえしの話(大宮市史 第5巻と浦和市史 民俗編両方にあります。この二冊重要)に「姫からカレシ寝取って自殺して花になった侍女の話」というイカれた話があって、その侍女の正体が「出雲の神の使い」だったのだそうです。要するに氷川明神の化身なんですけど、同じ百合的原理でも、「親友のことならなんでも知りたいから寝取っちゃった」的なてへぺろサイコレズじゃなさそう。もしそうなら自殺しないし。むしろ男と女のバイセク板挟み系の方がまだありそう。詳しく無いだけだとは思いますが、奇稲田姫ってほかの地域の伝説を見てるとこういうおもしれー女とはちょっとキャラが違うと思われます
それに氷川女体神社の木造鳥魚形祭具の魚の方は、鯉を模したものであろうと思います。「浦和市史 民俗編」419コマによると片目の鯉=目を突いた奇稲田姫、ということらしいし、「浦和市史調査報告書 第9集」87コマの印旛沼に行ったゴイゴイも、「川口市史 民俗編」500コマの「印旛沼に行った見沼の美女」(関東版深泥池タクシーみたいな話。これを二次創作にするならTonda先生の「怨霊姦」的展開になりそう)とイコールっぽい。ということは「大宮市史 第5巻」332コマの見沼の人魚もたぶんオタケ様なんでしょうな。魚≒女という構造は、弁天信仰における龍蛇≒女に似ているとも言えますが、奇稲田姫信仰にそういうのはあまり無いかと。確かに、笠間市の稲田神社に蛇に追われて茶の木の根で転び松の葉で目を突いた話があって、茨城北部以北のジュウドノと旧利根川以西のジュウドノを結びつける鍵になるかもです。ですが「出雲国風土記」に奇稲田姫の伝承や祭る神社は無くて、「古事記」「日本書紀」以降の神格だそうだから、稲田神社の本来の祭神は稲好井(しみず)だろう(「茨城の神社覚書1」)という話も。当社の北、八瓶山に八岐大蛇が住んでいたという話もあるようですが(「日本の神々:神社と聖地第11巻」)
見沼の竜を八岐大蛇と絡めて語る話もあるみたいですが、でも氷川神社は本来、熊野信仰だったかもです
江戸時代の氷川神社の本殿は三社一体だったそうです。男体宮、女体宮、簸王子宮があってそれぞれ同格だったらしい。でも「氷川神社 ー大いなる宮居の歴史 第四十一回特別展ー」p29に生保二年(1645)の最古の境内図が掲載されていまして蛇の池が無い(!)んですが、これによると本社(のちの男体宮)がまずあって、「稲田」(のちの女体宮)と「吾妻」、火の王子(のちの簸王子)などが配置されてたそうです。本社祭神は日本武という説もかつてありましたし、それ関係でしょうね。吾妻はそれ以降現れず、p31によると、二番目に古い天和三年(1683)の境内図には最古の地図には無い拝殿が火王子の前に描かれていて、これは天和年間以降に三社一体に改変されたということを表すものらしい。でも問題は「さいたま市周辺の二間社の氷川神社(二棟並列を含む)」(ググって閲覧)によると、氷川を冠する神社のうち中世に建てられた建物には男体と女体の二つの部屋があるという共通点がありますが、今の大宮区の氷川神社が例外になること(今は三間社)。総本社なのにね。1645年頃に男体が本社独占したのかな?となると、それ以前は三社一体だったのか
「第四十一回特別展」 p19によると本社祭神が「ソサノオ」というのは本来、簸王子宮の神主の内倉家が唱えていた話で、本社の神主を実際にしていた岩井家は「イサナキ」だとしていました(日本武説は唱えてなかったようです)。さらに「大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化」p128によると、三社一体体制を作ったのは熊野三山の修験道者だという説もあるようなのです。「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」105コマによると、応安元年(1368)頃、大宮区の氷川神社には社僧として熊野御師がいて、そいつが熊野那智山の社僧に檀那職を譲った、とあります。「その歴史と文化」p97によると、氷川神社の大湯祭は元々は修験道の柴燈護摩だったようですが、これも熊野の神主が持ち込んだものである可能性がありまぁす!
1368年 三社一体?
↓
1645年 非三社一体
↓
1683年 三社一体
↓
今 三社一体
かな?大雑把に、二間社も三間社も三社一体みたいな理解でヨロ
ただし通説的説明では、三社一体体制を作ったのは荒脛巾社の神主の氷川内記という人だと言われています(「第四十一回特別展」のp30など)。こいつが火王子推しで、推しを男体宮と同格にするために独裁体制を敷いて改革を行った(内倉家とグルになって?)、とかなんとか…なのですが、荒脛巾社の神主がなぜ?という感じもある。「その歴史と文化」の説明の方が理にかなってます。熊野速玉大社に祭神を伊邪那岐とする由緒があるのはよく知られてますし、熊野信仰は埼玉でも席巻していました。もちろん、社家が武蔵国造の末裔で出雲氏の分家だと言われてるので、古代の出雲信仰を上書きしたんでしょうね(?)。ですが熊野本宮大社の祭神の家都美御子はイコール素戔嗚という説もありますから、実は岩井家は速玉派で、内倉家が本宮派で対立してたとかなのかもですね。まあ「熊野山略起」とかだと熊野那智大社の主祭神・結宮の夫が、本宮の主祭神・慈悲大顕王なんですが
ちな「関東地方における女体社の調査概報(下)」(ググってダウンロード)や「その歴史と文化」p127によると、氷川女体神社はもともとは氷川信仰の神社ではなかったのだそう。根拠として天正十九年以前の史料では単に女体宮、または御室女体宮と呼んでいて、氷川を冠したことは一度も無かったことが挙げられてます。これも、熊野三山が11世紀の初めに形成されたもので本来はそれぞれ別に成立した、と言われている事と似てます。付け加えるなら、大宮区の女体宮の神主・角井家が出雲氏の末裔なのに対して(「西角井家系図」による。ただしadeacでログイン不要な「越谷市史一 通史上」の「丈部不破麻呂と物部直広成」のページによると、偽だとしています)、氷川女体神社の武笠氏が佐伯氏の末裔(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」105コマ)だと言われてること。一般的に神主の系統が違うなら同じ神をまつってない、みたいな感じだそうです。それで言えば廿日市市の厳島神社もなんだよネェ〜なんですが、ここも奥が深いので触れません。例えば厳島大明神=足引宮説とかあって、俺は足引宮=オタケは考えにくいと思う
ですがその大宮区の女体宮≠緑区の女体宮だという説の根拠は、実はそれらだけだとも言える
確かに「その歴史と文化」p97からも、見沼区中川の中山神社の別名、<中氷川神社は元々は「中川村の氷川社」の省略であろう>ことが伺えます。中氷川は氷川神社と氷川女体神社の中間地点という意味じゃないってことです。そして<中山神社の鎮火祭は氷川神社から大湯祭が伝来した>ものらしいことも伺えます。p97によると、「元禄十二年(1699)の中川村氷川神社の絵図」に本殿じゃない?「火王子」の前に火塚が置かれていたらしいのですが、「埼玉叢書 第6」245コマに掲載の「武蔵州足立郡大宮氷川大明神縁起之書」(「その歴史と文化」p97によると室町時代のもの)によれば、この頃大宮区の氷川神社で「護摩壇を歩く」火剣祭礼が行われていた。この時系列があるからです。なので本来の祭神は火王子(今の大己貴に相当)じゃない可能性があり、氷川神社(父)と氷川女体神社(母)の間に中山神社(子)という説明はちょっと疑うべきです。それでもレイラインの意味は残るかもですが(?)
なら、雄堂様=ジュウドノで雌堂様が氷川女体≒オタケ様なら、緑区の女体宮≒大宮区の女体宮の可能性もなくは無いんじゃない?
御船祭があることや四本竹遺跡から丸木舟が1艘見つかってるから、船玉信仰の物的証拠として、氷川女体を在地系の船の神として位置付ける説もありますが、船玉信仰は媽祖信仰だったりもしてて関東では東茨城郡大洗町の弟橘比賣神社が船玉信仰の中心地になるという話もあるそうですから、茨城が総本社的なことにもなります。blogspotのマグノリアというブロガーも関東の女体信仰=媽祖信仰だと結論づけていますが、氷川神社の日本武説とも関わりそうだね
ただし丸木舟は膝子沼に関係する膝子遺跡で13艘出土、伊奈氏屋敷跡遺跡で3艘出土、膝子沼は芝明神信仰(三社託宣系?)で、伊奈氏屋敷は言わずもがな頭殿なので、氷川女体の船神要素の証拠としてはちょっと弱い。熊野速玉大社に御船祭があったりして、熊野本宮大社にも船玉神社があったりして逆に熊野系かもね
ということで、氷川女体神社はイコール弁天信仰で、大宮区の氷川神社との関係でイコール結宮かもしんねぇという話をしました
・水神だから弁天信仰を取り入れて、後から熊野信仰化
・熊野修験道者が早い段階(といっても古代じゃない)から関東で暗躍しててその後に中世の宇賀弁財天信仰化
のどちらかみたいな理解でヨロ。でも弁財天=結宮はちょっと違和感がありますし、以上の説明だと結宮と氷川女体神社の直接的関係が証明できていません
で、「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」138コマの言う「太田道灌の金蔵に由縁があるという地内西部の錠殿社・鍵殿社」は、たぶん見沼区御蔵1432-1に鎮座の神社の事だろうと思います。それは本殿の弁財天社らしきものと「氷川稲荷」と書いてある神札が納められている赤い祠でした(2024/10/19)。本殿奉納の白蛇の絵馬は取手がありそうな位置にかかっていて、気のせいか錠っぽいと思いました。狐も玉鍵を持ってたりしますけど、熊谷市須賀広に重殿稲荷、深谷市石塚に住殿稲荷明神がありますし、埼玉でも稲荷信仰に水神信仰要素があったりします
茨城北部以北でも「塙町史 第1巻」797コマ〜の塙町消防団第4分団第3班の裏にある十殿神社など、稲荷信仰系の神名がけっこう目立っています
ちなみに「大里・北葛飾・比企」 の159コマによれば、上原の白髭神社の神主が大天白という地にかつては住んでいたんだとか。天白=稲荷説もあったりもしますが、ジュウドノ=天白説はありえない。ジュウドノ=稲荷だから氷川女体=大宮売みたいな話も成立しません
氷川稲荷というのは大宮区の氷川神社の境内にある同名神社のことでしょう。神池を挟んでちょうど宗像神社とむかいあってます。「大宮市史 第5巻」310コマが、この宗像神社のことを弁天社と呼んでいて、「弁天社は鐘ヶ谷戸(現在の大宮駅辺り)の鐘姫の霊を祀ったものだともいう」。鐘姫は三井寺の鐘の蛇女房に淵源がある系だと個人的に思ってまして、三井寺って弁天信仰がある琵琶湖の真ん前にあるので、俺は三井寺の蛇女房=唐橋の竜宮の娘=弁財天=浅井姫論者です。だから鐘姫≒オタケ様だと思う
要するにジュウドノとは竜神と化した稲荷の男神かもしれないし、鍵殿は鍵を持つ宇賀弁財天なのかなという話
ですが「第四十一回特別展」を見る限りだと史料に稲荷社が現れるのは元禄七年(1694、p33)からっぽくて、天和三年以前はなさそう。くだんの錠殿神社(?)も現代の「まつるなら、やっぱりお稲荷さんだよね」みたいな感じなのかも
しかもden6blogというブロガーの2018年09月02日の投稿によると、御蔵1432-1の神社は「大宮のむかしといま」33コマに見える市神様(御蔵)らしいです。確かに「大宮市史 第3巻 下」272コマによると錠殿社・鍵殿社は二基の石祠であるらしいのですが、氷川稲荷も弁天社らしき神社(鐘姫?)も、どちらも石祠では無かった…。石祠から木の祠に神霊を移したかもしれないじゃん?どうしてそうじゃないと言い切れるの?って気持ちもありますが、ブロガーは「大宮のむかしといま」33コマの「御蔵の鎌倉街道」というタイトルのモノクロ写真と同じ構図で、神社の前の道を撮影する事に成功しています。「大宮市史 第2巻」220コマによると、松野氏館跡(見沼区御蔵の鎌倉公園)の北に池袋という地区があり、そこに海老沼の船着場があり、そこから伸びる道も鎌倉街道と呼んでいたらしい。ということは、この道もその類いである可能性があります。確かに現地、古道ぽかったけど…。市神との合祀の可能性はないですかねと思ったりもしますが、錠殿社・鍵殿社の祠が松野氏館跡の雑木林にあった(221コマ)と言う「大宮市史 第2巻」が1971年の出版物で、その頃はまだあったのが平成はじめの宅地開発によって祠が行方不明になった、というのが界隈の見解です。市神=錠殿なら1971年から、「大宮のむかしといま」が出版された宅地開発以前の1980年の間に移動したり合祀したりがあったことになり状況がちょっと考えにくい
逆に言えば、鎌倉街道沿いにあった御蔵の市神様はこの地域の大社である大宮区の氷川神社の境内社で構成されてる、ということに。状況を整理すると「大宮市史 第3巻 下」272コマの地図によると、錠殿社・鍵殿社は東西方向を走る御蔵の鎌倉街道に沿って存在していたらしいです。「大宮市史 第2巻」の221コマの詳細な地図と照合すると、この鎌倉街道というのは東新井名店街の前の橋から松野氏館跡の前を東へ通り、御蔵1374−5のあたりで南北方向に走る道に接続する道の事らしい。この南北方向に走る道が、「大宮のむかしといま」32コマ掲載の地図の、岩槻〜川口間の鎌倉街道のことのようです。つまりこの辺りの鎌倉街道は鎌倉時代の道ぐらいの意味で、橋を西に行けば大宮や与野にいけてたらしい(ほんまけ)、御蔵1374−5の角を北に行くと岩槻、ということ。つまり「大宮市史 第2巻」221コマの言う錠殿社・鍵殿社があった松野氏館跡の雑木林というのは、やっぱり鎌倉公園の南側あたりのことらしいです。もしくは地図に御蔵と書いてある辺りかも
以上の話を強引にまとめると、
妻 弁財天(妻沼の女体様、氷川女体)=結宮??=十一面(聖天、九頭竜?妙理大菩薩?)=雌堂様
夫① 伊邪那岐(男沼の男体様、妙理大菩薩)=稲荷白髭合社のうちの白髭大明神つまり大我井神社=氷川男体で早玉宮??
夫② 曽登神社(蔵王)=稲荷明神(稲荷白髭合社のうちの稲荷、氷川稲荷??)=雄堂様=白山系九頭竜(十一面)?
でしょうか。十一面が弁天とイコールだというのは聖天繋がりで個人的には許せますが、蔵王=稲荷とか、白山信仰=熊野信仰とかいうのはだいぶ違和感がありますね。結宮は千手観音だし、男沼の男体様と氷川神社の直接的関係も証明できていません
弁財天と蔵王の組み合わせもまあまあ変なのに、なんでこうなるのかと言うと。
まず、曽登神社の祭神と鎮守神明神社の男体様は違う神っぽいから
あとは「修験道資料集1」の151コマに
父(浄飯大王) 安座常=吒枳尼天
母(摩耶夫人) 筑波女大神=弁才天
子(悉達太子) 筑波男大神=聖天
と書いてあります。150コマによると稲村内禅定下向道(今のおたつ石コースかな?)に吒天石、辨才天石、聖天石という三天合形石があるらしく、聖天堂(おそらく聖天神社)の辨才天虵形石、女躰権現社の近くの聖天岩屋と辨才天岩屋とかも気になりますが不明。そもそもここでの十一面は白山比咩と稲荷大明神らしいので、おそらくジュウドノ信仰とは無関係です。しかし、これをヒントにしました。悉達太子はブッダのこと。あくまで「筑波山流記」の世界の中だけの話なんですけど、神仏習合時代の筑波山は母♀と子♂の山だったんですね。そして荼枳尼天と弁財天と聖天の組み合わせ…。筑波山は三面荼枳尼天信仰の山だったのか?聖天ではなく男神である歓喜天ならシャカと一致するのですが、荼枳尼天信者が笠間稲荷経由で筑波山にいたとか?
筑波女大神を筑波女体と呼ぶことにしますが、少なくとも氷川女体と筑波女体については理論上、同じ信仰からの派生になるわけです。弁財天繋がりで同一だと言っていいかもしれません。あくまで「筑波山流記」だけの話なんですけど
ちな住殿=住吉説、関東の女体信仰関係の話にかすってるかもです
「保谷の昔と村人たち」p46によると、西東京市保谷の尉殿神社の拝殿に神楽の翁面があったらしく、翁=尉という具合で高砂神社でかつて祭神とされていた住吉の神と同じ神だとされた頃が戦後のある時期にあったそう。でも「紀要Ⅲ」のp14によるとあったのは三番叟の面。翁面は尉面と似てますが、三番叟とはだいぶ違います。住吉大社では住吉明神は白い肌の仙人として知られてて、「明宿集」(「金春古伝書集成」151コマ)によると能の翁の正体の第一候補が住吉明神。翁も白い肌の老人です。一方で八幡古表神社では住吉の神が黒くて若い小人だとされてます。「花祭 前編」349コマにも、おきなという名前の三番叟らしき人物が、尉殿という名前の翁らしき人物と邂逅する場面が描かれてます。つまり住吉大社の住吉大神=翁=老年期、八幡古表神社の住吉大神=三番叟=壮年期ということになるみたい
でも面は行方不明みたいな、そもそも大した由緒もなさそうな代物みたいな雰囲気も文面から感じとれます。「日本国語大辞典第十巻」が髯殿(ゼウドノ)の異称があるとしてる翁草も、ジョウドノ神社では神聖視されてないし(ササゲだしゴマだし)
で、「川崎市神社誌」p16によると川崎市幸区幸町の女体神社が「住吉」女体権現と呼ばれていたらしいです。幸区の女体神社が大女様と呼ばれてるから神功皇后のことかと。辛国息長大姫大目ってやつ。おんめ様とも呼ばれてたそうで(「川崎の民間信仰」p69、「第62回神宮式年遷宮奉祝 安らぎの杜を訪ねて」p20など)、大女は御前(おんまえ)とかからの過剰修正かもですが。多摩川流域の女体社群=住吉女体というのはありそうですが、氷川女体と同じってどうなんでしょう?
問題なのは「神奈川県神社誌」76コマには「往古」女体権現と呼ばれ、と書いてあること。誤植じゃ済まされない😠「八十神詣で」によると高津区の橘樹神社の神体が男体女体と呼ばれてたそうで、幸町の神社も由緒的に弟橘媛信仰かもです
たぶん、
・1400年代初頭、重殿水源でジュウドノ信仰が発生。なぜか太田呑龍の方へ東下。太田呑龍vs妻沼聖天の伝説は室町時代後期まで遡れるか?
北は利根川を遡上し、高崎市矢島町の増殿神社へ至る
・なぜか埼群軌道新線が想定されてるルートで妻沼聖天に南下し蔵王信仰化以前の曽登神社へ
・女体様の本地仏の十一面にちなんで十殿と名付けられる(?)。重殿水源へ逆流
・白山系九頭竜信仰の要素を得て竜神化?(つまり曽登神社は元々九頭竜信仰の神社だった?)
・妻沼聖天に「北院御室拾要集」の三面摩多羅のイメージがなぜか伝わってて、弁財天(蛇神)や稲荷(もしくは稲荷白髭合社からの影響)の要素を得る。やっぱジュウドノ=稲荷じゃんと言いたくなりますが我慢
白髭信仰との習合は、言い方悪いけどバグかなと。
見沼七弁天も、二階堂北菅田町の厳島神社と菅田比売、寺池字池島にあった願成就院池島神社の宇賀弁才天と見目みたいに、全国的に土着の神のマーカーみたいだから、本質的じゃないのかも
・忍城主成田氏の庇護の下、それらの要素を持ってなぜか各地へ伝搬。分布図を見たら一見熊谷市中央エリアから四散しているように見えますんで、妻沼から南下してきたと考えたいです
・熊谷市南部エリアに行ったグループは、秩父グループと荒川(本来は和田吉野川)低地グループに分かれます
和田吉野川低地グループは星川の上流や元荒川を横切り、熊谷市小八林の頭殿社から市野川を流下、川越市へ。ズドノやズドは特にこの辺りに多いみたいです(ジュウ→ズウ→ズ)。市野川は比企丘陵のキワを通る川
「近世初頭の荒川附替」によると、「第一軍管区地方迅速図」という地図に通殿川の源流は「村岡の沼」だと書いてあるそうです。「荒川上流河川事務所管内 令和7年度 直轄河川重要水防箇所平面図」の村岡樋菅あたりにあると思います。これが仮に東遷以前から存在する所なのだとしたら、通殿川が久下の近隣にあるのや九頭竜川が和田吉野川の支流なのってなんか意味深なんですが、音韻の関係から通殿や頭殿は発祥の地じゃねえとしちゃったので軽視軽視。ちな久下というのはここを切って荒川を和田吉野川に瀬替えした所
武蔵野進出グループは二つ。一つは川越市福田の頭殿社から高麗川沿いに坂戸市四日市場の十殿稲荷(場所不明。四日市場492?)に至るグループ。もう一つは志木市の十殿権現から柳瀬川沿いに所沢市の重殿神社、東大和市の尉殿権現社(ジュウ→ジョウ)、西東京市北原の尉殿大権現へと拡散するグループ。『入間郡誌』213コマによると、新田義宗の陣地が所沢市林にあるそうな。父親の新田義貞が1352年、新田庄から小手指ヶ原へ行って戦ってますから、ジュウドノの群馬→埼玉の証左になるかもしれません。所沢市宮本町の蔵殿神社について「埼玉叢書 第4」125コマに掲載の「所沢市の斎藤家の系図」に「弘治二年(1556)に従殿権現の社地へ神明宮を勧請」とあるので、伝来は1404〜1556年の間のことでしょうか(ジュウ→ズウ→ゾウ)
そして旧入間川で志木からさいたま市南区文蔵(のち川口市芝)の十度明神社に至る。「天体・天文・暦・地図・気象 アラカルト」の「利根川東遷 治水地形分類図」を参考にそう思った
・茨城北部以北へ行くグループは中川低地グループから分かれます。
このグループでは、妻沼の女体様と蔵王信仰化以前の曽登神社祭神が一緒に行動してます。
妻沼から羽生市上村君の通殿社(ジュウ→ズウ)へ行き、会の川を横切り南下、星川(今の見沼代用水)左岸を流下。このグループには熊谷で四散したうちの、行田市中里の蔵殿権現のグループがおそらく合流しています。合流は加須市串作の頭殿社〜加須市岡古井の通殿神社の辺りで、加須市下崎の通殿社(氷川神社?)に収束する感じです
荒川西遷以前は和田吉野川と元荒川に挟まれているところに分水界が通ってたワケですが、そういう感じなので分水界に位置する鴻巣市大間の津門社は和田吉野川低地グループに入れたい感じです
その後、加須市鴻茎の増殿社(ズウ→ゾウ)を経て、根金付近から綾瀬川右岸を流下。頭殿権現社(ズウ→ズ)を経て原市沼川を横切り、女体様が氷川女体に習合していきます。そしてさいたま市の重殿社、鳩ヶ谷支台の狭隘部を横切り、常泉寺を経て錠殿社(ジュウ→ジョウ)に至る
見沼周縁部の核心部に侵入するようなこの動きに対して、氷川女体=見沼の竜神は見沼の外に進出するような動きをみせています。「埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料 第1輯」26コマに見える川口市赤山の赤山陣屋→印旛沼という流れのことです
ジュウドノは氷川女体について行きます。理由は全く見当つかないけど、印旛沼に見沼の龍神が行くのだって変と言えば変だからジュウドノだけ変というのも変。印旛沼にも竜伝承があって、「利根川図志」に掲載の龍角寺の伝説(「印旛沼の龍伝説に学ぶ」を参照)にある龍女がイコール氷川女体だということなんでしょう。会いに行ったんだと思います、雨を降らせて殺された竜(ai概要は龍体分断とか三体分断とか名付けてた)という、自分とはちょっと違うタイプの龍に。彼女らはおそらく吉川市の蕎高神社(龍角寺の近くの素羽鷹神社が印旛沼の伝承と関係するから)や茨城県北相馬郡の蛟蝄神社を経由している。麻賀多神社祭祀圏は十中八九無関係。てことは香取系と関係がある?
ジュウドノは千住を経由して見沼に戻ることにした氷川女体から女体様が分離して(?)、匝瑳市の竜尾寺を経由して?太平洋に出て茨城北部以北、具体的には大北川河口になぜか上陸、としてみます
つまり茨城県のジュウドノの中心地は大北川流域だと思います
このグループがジュウドノ信仰と氷川信仰の結びつきを進めたかもなわけですが、氷川神社祭祀圏を侵しまくる和田吉野川低地グループで氷川信仰との習合が起こっていないのも不思議。やっぱり氷川女体神社って元々氷川信仰では無いのかも
・茨城北部以北に行ったグループについて。
ジュウドノは東武伊勢崎線沿線はほぼゼロです。「多摩川流域の神社分布の特質とその信仰形態をめぐる研究」(ググってダウンロード)13ページによると、中川低地の旧利根川流域の女体社群は筑波女体。これに従うと、妻沼の女体様はその辺りとは習合していないと考えられます。ただし鴻巣市袋の女体社も「大字筑波の由来は筑波山がよく見える事からと元別当寺住職の井上有武氏が言っていた」のを根拠に筑波女体、という説明はビミョー。ここが中川低地じゃないのは明らかです。「関東地方における女体社の調査概報(中)」にも「大字筑波は戦後の命名でここに筑波山関係の伝承や信仰は無い」とある
曽登神社祭神と妻沼の女体様はその後、茨城県県西地域や常総をなぜか素通りして(この説だと理由が説明できない)、やはり大北川河口になぜか上陸
北茨城市華川町の十殿神社で南北に分岐、南は女体様が高萩市秋山の承殿神社を牡馬と、曽登神社祭神が高萩市大能の十殿神社で牝馬と結婚。那珂郡東海村の住吉神社の境内社・十殿神社へ至る
北は北茨城市関本町の重殿神社で内陸行きと海沿いに分岐、いわき市錦町の種殿神社へ
内陸は塙大津港線を通って福島へ。東白川郡矢祭町の十殿神社へ至る
・秩父グループは、何故か曽登神社(ジュウ→ズウ→ゾウ→ゾ?)で蔵王信仰の味付けをしてから行ったようです。住殿稲荷明神、深谷市新戒の蔵殿宮、そして象殿池(蔵殿、つまり蔵王殿だった?)を経由したのだと思います。熊谷市河原明戸の頭殿神社や熊谷市久保島の蔵殿社といった秩父往還ルートではないのでは、ということです
そうなると、「中央エリアから四散」説はちょっと変で、重殿稲荷や頭殿神社はどういった位置付けをすべきか迷ってしまいます
大里郡寄居町や秩父郡長瀞町に分布が無いのもちょっとだけ気になります。「榛沢郡巻四」の42ページによると藤田神社の勧請元は大里郡寄居町の極楽寺で、「榛沢郡巻五」の61ページには極楽寺=上ノ宮は男体、下ノ宮は女体、とあります。下ノ宮は現在の宗像神社のこと。極楽寺は聖天と称して歓喜天をまつっていた、と解釈したいです。重要なのは荒川を遡上してるならこの辺りを通過してるはずだから、蔵王じゃなくて昇殿神社のように聖天信仰化しているはず、ということ
武甲山登山の歴史は秩父市より横瀬町の方が濃いらしいです。秩父の八大龍王信仰なんかも大蛇窪ー御旅所の亀の子石ー秩父神社と南→北でレイラインしてるという話もあって(今宮神社だろ、大蛇窪と亀の子石の関係ってほんま古いんけと思うけど)、蔵殿の武甲山→大渕という移動の仕方も南→北です。「皆野町誌 資料編5」476コマ等によると、武甲山の御嶽神社から皆野町大渕に光が飛んできて、旅の僧に「竜神を祀れ、蔵殿権現と名付けよ」と言われ建てたら蚕業が豊かになった、とのこと。「埼玉県の蚕神」(ググって閲覧して)の言う大渕字橋場418-2の蔵殿蔵王権現神社や、「入間・北埼玉・秩父」680コマのいう「荒川の岩上に祀られていた水神様を合祀した、橋場の御嶽神社」のことらしいっす(ジュウ→ズウ→ゾウ)。横瀬町の武甲山御嶽神社の里宮とは田無神社と尉殿神社みたいな関係ですね
通説では秩父の妙見信仰は群馬→大野原の峰沢ホタルの里の辺り→音窪→七ツ井戸→秩父神社と荒川を遡上してきたとされてます。ですが、秩父郡東秩父村の身形神社の口碑によれば長女は小川町の三光神社、次女は身形神社、三女は秩父神社であるそう。こういうタイプの伝承というのは遷座の暗喩だったりします。妙見祭祀圏は荒川沿いではなく、東秩父村に分布していたりもしてて、小川町から定峰峠を通って大野原に出る埼玉県道11号線が「古来秩父民需の大半を荷う要道」だそうで、この道で秩父入りした可能性もあるかもらしい。俺は通説を信じますけど、ジュウドノも群馬発祥なわけですが、なら妻沼から吾野通りで横瀬を経て大渕に来た可能性があるかもですね(?)
この説の欠点は、荒川遡上ルートよりもさらに無理があること。妙見と違って外秩父山地にジュウドノ分布してない。それ以上に、だったら白髭と習合してるはずじゃなくない?ということ。高麗=白髭神社祭祀圏をつっきっているわけで、蔵王じゃなくて白髭に染まって秩父に入ってなきゃおかしいよね、と
おそらくなんですが、極楽寺の下ノ宮は極楽寺より後に作られたものだと思います。女体神は寄居にいなかった。その頃に蔵王権現としてのジョウドノが荒川を遡上した
という流れかも
要するに「高萩の昔話と伝説」p372の言う「水戸黄門の前に現れた白い大蛇やお姫様な上君田の十殿様」は妻沼の女神だったんです!(ドヤァ
──
ただ「関東平野と旧多賀郡(茨城県北)では起源を異にする」という説もあります
①「鎮守社が大能の十殿神社だった」村で飼っていた牝馬が名馬里ケ淵で淵の主(=十殿)との間に仔馬を産んだが、それには角があって木に登る習性があった。村人がキモがって淵に沈めたら洪水が起きて村壊滅…という花貫川周辺に伝わる話が、「高萩の昔話と伝説」190コマだと特異なバージョンになっています
壊滅に至る経緯が、旦那に乗る時に使ってる鞍を手綱のバカ殿に盗まれて、花貫ダムの上流に住む大蛇で女神の十殿様が「返してくれろ…」と尋ねに行ったら断られ、産んだ仔馬に至っては「承殿神社を鎮守とする村」全体で飼ってたのが、バカ殿にキッモと言わんばかりに殺されたということでブチ切れて、だそうな。氷川女体に通じる祟り神要素もありますよね。氷川女体は刑事、十殿は民事の違いがあるかもですが…
大能には水戸藩の大能牧場があったようで、wikiによると馬を売って藩政を支えてたみたいです。でも領民に負担を強いるものでもあったようで、脱走して野性化した馬が大能・上君田・下君田・横川の田畑を荒らしてたみたい。囲い込みとか生け取りとかもさせられていたようです。いずれの地域も十殿神社があるエリアで、190コマのバージョンが一番古い場合、伝説は政策批判の土壌から生まれたものかもしれません。したがって旧利根川以西から伝来したものではないと言えます
あるいは馬娘婚姻譚と蛇女房の融合かもしれません。そうなると東北地方が見えてきます。承殿神社は関本町からの勧請という由緒があるらしい(「茨城の神社覚書2」90コマ)ですし、大能牧場も南部藩から馬を仕入れたりしてたようです。側高大神の神話に似た背景があるとも言えます
豊根村古真立の鈴木禰宜家に伝わる口伝書に、「子種ひろひ」(「花祭 後編」88コマ)というものがあります。これと東北のオシラ祭文を比較しましょうよ。「馬娘婚姻譚」の61コマから79コマに掲載されております、津軽の「せんだん栗毛物語」を材料にします。第○段の(1)を追っていくと全文が読める仕組みデス。花祭は「千明長者の娘の玉世の姫」と「足毛のめう馬」。津軽は「金満長者の娘の玉や御前」と「千だん栗毛」、そういう違いもありますが、花祭にオシラ様信仰の痕跡があるのは確かです。また名馬里ケ淵の話と直接関係がありそうな、三宅島の角の生えた馬の話(「年刊民俗採訪 1」149コマがおすすめ)。この文献では「蹴って殺した」なんですけど、処女喪失の寓意という解釈が可能な角で殺した系も一応はあるようです
和姦の有無の要素がありますし、類型が三遠信から伝来した可能性もありますが、花祭のミックスカルチャー性(ジュウドノ信仰とは無関係の話なので根拠は語りません)を考えたら北からの伝播が伊豆諸島や三遠信に波及した、というのがあり得そうです。また149コマによると、その際、富賀神社社家の壬生家の奥方が土蔵の二階に隠されたのですが、「馬娘婚姻譚」によると玉や御前は「これが人間のからだなれば、どうぞ夫婦になりそめたいもの…」と体を三回撫で回して馬を発情させる6歳女児だったそうで、その別名が「二階の一人姫」。「諏訪神社祭典古式」の「陸奥国のひとり姫」も関係あるかもしれません。そしたらシンブクラを食らうのは馬の子妊娠してたから!?
おしら様信仰(玉や御前)→十殿信仰(十殿), 三島信仰(壬生家の奥方), 諏訪信仰(ひとり姫), 花祭(玉世の姫)
…なのかな??
「馬娘婚姻譚 : いわゆる「オシラさま」信仰について」 53コマによると、西白河郡まではオシンメ様(おしら様の亜種みたいなもん?)が盛んで、東白川郡で淡島様に習合したのだそう。浜通りもオシンメ様みたいですが、中通りルートで来たかもです(?)
獣姦出産要素は旧利根川以西にないです
それに茨城北部以北は、いわき市以外は全て局地的。戦国時代の茨城北部は岩城氏と佐竹氏の抗争の場だったそうで、田尻町の種殿神社の棟札の一枚(「日高郷土誌」23コマ)によると、ここを造営したのが佐竹氏側の小野崎氏だったそうです。上君田の十殿神社の社紋も佐竹の紋です(「茨城の神社覚書2」90コマ)。バカ殿も手綱城の城主だと言う大塚氏っぽい。一時期岩城氏に服従してたそうですが、佐竹氏にも服従していたらしいです。いわき市に分布しているのも、多珂国の残滓かも知れませんが、佐竹氏の遠祖の源義光が後三年の役で陸奥国菊田荘の権益を取った事の方がより直接的に関係してるかもです
「釘付けの龍」や伊奈町ホームページの「龍巻絵書き」の話から、旧利根川以西のジュウドノは職人の手によって広がったと思われます。武士の手によらないから、分布の仕方が行政単位や河川と一致しない。対して茨城北部以北の十殿は武士の手によるものかと思います。運び手が違うなら祭神も違う
②茨城のジュウドノは大山姫(承殿神社)、埼玉のジュウドノは岡象別と神名で呼び分けることが出来ます。「志木風土記 第9集」45コマによると他の文献では罔象女と書いてあって、罔の誤写から発生した神名のようです。したがって敷島神社の罔象女は岡象別よりも信憑性があるかもしれません。でも別は別に誤植じゃないわけで、オカジワケという唯一無二を葬り去るのもよくない気がします。そして〜別は男神。だから別の神
つまり罔象女を元ネタにした(TSした?)神が、水に纏わる由緒を持って分布している。というかそもそも「慶安縁起」(「紀要Ⅲ」p18)や「元和縁起」(p19)によれば、尉殿大権現は級長殿で風関係。風の武蔵野と水の関東平野を一括りにはできない事になるでしょうな。これに対して茨城北部以北は常陸太田市小菅町に二か所あるようで、大山姫の名の通り多賀山地全域に広がってることになります。つまり分布の仕方が武蔵野・関東平野と全く違う
関東では分布の違いは祭神の違いでして、河川が神社の分布と武士の所領・行政単位を決定付けています。鶴見川は杉山社と綴党(?)、旧合の川はナガラ社と上毛の国境、旧利根川は香取社と下総の国境など。旧利根川流域に分布していない事は、旧利根川以西のジュウドノを茨城北部以北のジュウドノに繋げようとするのは無理であることを示しています
ただ「茨城県北の方は目一つの神だから製鉄・鍛冶の守護神で、旧利根川以西の方は水神だから別の神」という説明については疑問です。県下では伊豆から勧請されたという桜川市の爪黒神社に蛇に追われて小豆のつるで転び茶の木で目を突いた話(「常陸の伝説」96コマ)、東茨城郡の手子后神社に松の葉で目を突いた話がありまして、似た話は他県にもありますが、それら全てが製鉄・鍛冶の守護神だとは言い切れませんよね?
確かに佐竹氏開発の日立鉱山が多賀山地ですが、ここはむしろ賀毗禮神宮や薩都神社のお膝元。高萩市下大能からも希少鉱物のペグマタイトが取れるそうなんですが、江戸時代にそれ用の鉱山があったのかわかりませんでした。承殿神社のある北茨城市中郷町に石岡の中郷炭鉱がありますが、1911年の開山だそうです
この説の発端は「郷土ひたち」のようです。特に42号p38にある「多々良場川と花貫川の合流地の南に承殿神社があって、多々良場川の上流の福平に鉱滓が堆積してる」こと以外、「郷土ひたち」は祭祀の物的証拠となり得るものを提示してなくて、あとは地名の語呂合わせや憶測で話してる感じでした
また「茨城の神社覚書2」89コマによると、下君田や上君田の十殿神社、高萩市高萩の十殿神社、十王町の種殿神社、承殿神社の祭日が10月10日です。大能の十殿神社や横川の種殿神社なんかは11月10日なんですが、田尻町の種殿神社の棟札の一枚にも10月10日に遷宮したと書いてあるんだそう(「日高郷土誌」23コマ)で、これも祭日?聖なる日?に合わせたお引越しカモ?なんですが、東白川郡塙町片貝の十殿神社も祭日が10月10日(「塙町史 第1巻」798コマ)で、これ十日夜、農業関係の祭日です。製鉄・鍛冶の守護神なら、例えばふいご祭りの旧暦11月8日とかのはず。まあ田無神社の例大祭は9月19日、社日なんですけどね!田尻の種殿神社に至っては5月8日(「日高郷土誌」76コマ)
仮に出雲大社の10月10日の神迎え神事の関係なら、「会議」も神議の事で、目を怪我したから欠席は間違いなくしているわけだし、目を突く話はドジっ子属性というか留守神神話の変奏かもしれません。なんなら十殿=セグロウミヘビかもですが、神議りの話は延享の御造営以降に広まったと言われてるので十殿が目を突く話も18世紀半ば以前に遡らないことにもなるかと
42号と43号を見る限りでは、そもそもの発端は「十殿が禁忌とする胡麻は渡来植物だから、渡来の技術が示唆されている」ということでした。しかし個人的には待ちくたびれる話も目を突く神の話も、栽培の禁忌で繋がってる事に注目したいです。栽培に禁忌を設ける神は反栽培(製鉄・鍛冶の守護神)ではなく、栽培❤️だからルール決める😤なのでは?ということです。「古代日本精神文化のルーツ」73コマにも「天目一箇は製鉄・鍛冶関係の神だとする谷川健一の説は確かだろう。だが、片目になる神に最初に注目した柳田國男の元々の説明では、捧げられた生贄が神と主客転倒したものである、というもので、捧げる理由は凶作や豊作と関わる天変地異。製鉄・鍛冶とは結びつけられない」とあります。その点、「上郷の民俗」101コマに片目を失ったおしら様の話がありますが、おしら様は農業の神でもあるので、やっぱり東北東部由来なのかな?
③茨城的には下君田の十殿神社が湯殿権現と呼ばれていた(「茨城の神社覚書2」89コマ)ので、湯(トウ)殿→十(トオ)殿→十(ジュウ)殿も注目されてます。旧称が湯殿山大権現の下君田の大塚神社も十殿だと言われてるのは、そういうわけです。湯殿山大権現の祭神比定は大山祇説が一番古いらしいんですが、伊弉冊説もあるんだし、だったら大山姫説も全然ありじゃん
於竹大日如来は江戸時代広く知られた話だったようですが、山形の奉公娘のお竹を羽黒山の修験道者が神格化したのだと、中央区日本橋本町にある於竹大日如来井戸跡の碑文に書いてあるそうで(未見)。羽黒山は湯殿山を統括してたとも言われてますし、十殿は東白川郡にも分布してます。山形県とかから川上川を遡って来て山越えをし、海を南下して江戸時代に関東に上陸、多気比売と習合した、とも考えられます。つまり東北西部発祥
「えうどの」が崩し字だとしたらゼウドノを誤読する可能性は低いみたい。歴史的仮名遣いでヨウドノになって、ジュウ→ジュと音が詰まるなら、ヨウドノ→ヨドノもあり得ます。江戸時代に湯をヨと読む例があるようで、ヨドノ=湯殿だと言えやす
④「おなばけ・はなぞの・いりしけん : 茨城地方の民間伝承考」26コマによると「七人の兄弟姉妹の神がいた。妹が北茨城市華川町の花園神社であり、姉が仲の王子神社。平袖峠にも「お姉様」と俗称する社がある」とあります。「常総の史蹟と寺々を訪ねる 後編」198コマによると「花園神社と同町の十殿神社は姉妹」とのこと。妹が花園なら、こういう書き方にはならないはず。ということで十殿は四姉妹の末の妹らしいと結論づけました。「常陸の伝説」96コマによると常陸太田市徳田の境明神という弟もいるとのこと。姉属性もあるんすね
花園神社は山王信仰らしいのですが、仲の王子は華川町花園の王子神社(祭神は熊野久須日)なので、お姉様は関本町富士ヶ丘の王子神社が怪しいと思われます
…これあれかな日吉大社の八王子かな。「祇園牛頭天王縁起」的には姉の三柱が羅侍天王、侍神相天王、宅相神才天王で十殿は蛇毒気かな。境明神は猿田彦じゃないってことです。誰かはわからないけど
そして「植田町史」p275に「出羽神社の境内の古池に九穴の鮑」とありますが、「おなばけ・はなぞの・いりしけん」25コマにも「花園渓谷の七ツ滝のうち四の滝に生息する鮑が花園権現のご神体」とあり、「譚海」140コマにも金砂山神社の神体は鮑だとあります。九穴の鮑はおそらくですが、那智大社発祥。25コマには「花園川に沿って腰越峠まで来て」ともありますが、それで鮑なら、県外が発祥の地という可能性もあります。一行は那智大社から太平洋を北上して茨城に上陸し、十殿→仲の王子→花園→お姉様と花園川を遡る順に離脱したのかもしれません
茨城県北といわき市は鮑と十殿で繋がっているわけで、旧利根川以西のジュウドノに鮑要素はありませんから、埼玉から、というのは大変考えにくい
⑤「日本民俗誌大系 第8巻」178コマに「十殿様は武術優れた士」とあるので、十殿自体に手綱のバカ殿や水戸黄門みたいな領主要素があるともみなせるようです。下君田の大塚神社が王塚権現とも書かれていたのは、そういうことかも。中世、天皇を金輪天王の生まれ変わりとする説があったりしますし、だから金輪天王や大己貴、大山祇を祭神としたりするのかも。「郷土ひたち43号」p36によると小野崎成通の妻が夫の死後、夫の弟を後見人にして当主になったそうです。十殿権現のモデルかも知れない(?)
戦う奇稲田姫とも似てくるものがあるかと。現代ならいざ知らず、太田道灌と奇稲田姫を結びつけるのは難しいです。昔の人が太田道灌を萌え擬人化して遊んでたと考えるのも難しいですし、成通の妻のイメージが埼玉に伝来したのかもしれません。常陸太田市の十殿坂館跡という詳細不明の山城も、もしかしたら成通の妻のかもですね(?)
「志木風土記 第9集」の48コマによると、美女木八幡社には化政期~明治初年までの間に氷川神社に転じてここに移築された重殿権現社があるようです。その移築の際に、一緒に移転した「秋元つや家」には重殿という屋号があったそう。これも女当主感があるとこじつけられるかも
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俺は同一論者です。茨城県北発生だと延喜式に載るような古社にならないみたいだし。権威主義的な発想ですが…
⑤ について。「第15号」27コマによると、坂戸市塚越の住吉大宮神社から南西約200メートルに十殿山という小高い雑木林があるらしく、そこに十殿明神と書かれた石碑がある。ただしメインは墓らしく、うほっいいとこの男だらけの墓地なのだそう。現在、ちょうどその辺りに天神さま古墳と義家塚があります。「志木風土記 第9集」48コマによると、比企郡小川町能増の小字重殿の地名も、四津山城の城主増田氏に関係するそうな。本地仏が十一面だから重殿の近くの八宮神社もほんらい重殿権現とか、十殿坂館も十殿の城だとか、そういうちょっとアレな説(俺は八宮神社祭祀圏は箭弓稲荷神社説を支持しています。これもイコールジュウドノなんておかしいと思う)はヌキにしても、「武術優れた士」の十殿も、金輪天王としてのジュウドノもイメージとしては♂でしょうよ
④の主張は、花園山が主体となっていわき市等へ広げた事になります。花園山は山伏たちの修行の場だったそうで、なら旧利根川以西と同じじゃんと。そっちにも修験道者による流行神の可能性があります。また「常総の史蹟と寺々を訪ねる 後編」198コマには「十殿が花園の神を待ちくたびれて松が嫌いに」とあり、「茨城の傳説」61コマでは逆に花園の神が十殿を待ちくたびれて松が嫌いに、となっています。姉妹百合リバが抽出できそうですが、似た話があるのは、例えば浦和区の調神社です。ジュウドノといういわば商標権の譲渡が聖天山と花園山で行われた、とか?
③については見沼区や熊谷市四方寺、船橋市大穴北に湯殿神社があるので、そちらを視野に入れてもいいことに。井殿権現こと熊谷市西野の長井神社(「幡羅郡之三」八頁30ページ/31ページ)や、井殿明神こと熊谷市玉井の玉井神社(「幡羅郡之二」一頁9ページ/10ページ)は読みがイドノだし、玉井→井殿かもしれないので、ジョウドノじゃないっぽい。湯殿も湯桶読みされたことないんじゃないの?北茨城市中郷町の湯殿神社とかも本当にトウドノ?大丈夫?
そもそも東白川郡以西には分布してないのですから、山形からの伝播ではないんじゃないですかね
②について。
大山姫は信州姨捨山に同名の40代BUSUがいまして、磐長姫と同一視する向きもあります。十王町の種殿神社も大山祇配祀です。秋山の承殿神社は1973年版「茨城県神社誌」297コマに「807年に筑波山神(大山祇神)を祀った」とありますが、昭和15年版の155コマには無いです。少なくとも姨捨山の大山姫≠広島市安芸区の平山神社合祀の大山姫宮、ってことは言えると思いますけど…。本来の祭神じゃないのかも
ジュウドノが広く知られるようになったそもそもの発端は、「よみがえる中世 5」とかいう本にあるらしいです。38コマによると群馬では湧水のあるところや、かつてあった窪地とジュウドノ地名が一致するらしく、40コマによると板橋区の北野神社の田遊び神事の唱え言に「ナンぞうどの」が出てくるとして、農業関係の神ではないかと推測してます。ジュウドノって八幡や諏方みたいに南無なんちゃらって言われるような神格だったのね…と飛びつきたくなりますですが、1872年の「武蔵野話」134コマでは「ヨナンゾウ」や「イナンゾウ」として記録されてあり、「よみがえる中世」はこれを聞き取りミスと断じているから注意。ヨナンゾウで一つの単語のような気がします
「よみがえる中世」は赤城山の南麓に広がるウナギ田(41コマ)のようなヤト田、もしくは種田(苗代田のことらしい。40コマ)がジュウドノの由来だと結論付けてます。ですが赤城山南麓に最も近い前橋市北部〜みどり市南部辺りには何故かジュウドノ神社、見当たりません。当然この辺りは赤城神社祭祀圏です。国土地理院地図で地名検索すると、谷戸という地名は南麓というよりみどり市と桐生市の市境、もっというと相老の周りに五箇所点在。しかし谷津地名を含めたら榛名山南麓の方が強く分布しております。谷地、谷田、谷地名も近辺にあまり見当たりません
新田小金井町の脇屋重殿神社は一級河川大川が下る方に向いているじゅうとの様のように南に向いていますから過去、湧水があった可能性がありますけど、太田市沖野町の増殿神社や新道町の重殿宮は東に、由良飯玉神社の境内社の増殿神社(お札を納めるところにあるらしい)は本殿を向いて右にあるようなので西に向いてて、これらは湧水地ではないのでしょうね。ただしネット情報になりますが、「もう一つの重殿神社であるかは分かりませんが、脇屋の南の新道町の新道町会館の敷地に小さな重殿宮があります。新道町という地名はそれほど古くなく、会館のある場所は元は大字脇屋でした」とのこと
旧利根川以西のジュウドノ神社は鷲神社や久伊豆神社祭祀圏にも入り込みまくってて、分布の仕方がカオス。群馬と埼玉と東京で一緒くたにしようとしているから当然なんです。ジュウドノ神社祭祀圏は関東では例外的に法則性が見出しにくい、ともいえますが、一緒くたが正当じゃないとも言える。例えば尉殿神社の旧地が西東京市北原の田無第二中のプール辺りにあって、旧地名が谷戸宮山で、そこには現在も湧水があって(えっち)、でもウナギ田のような起伏のある土地ではありません。水害常習地と完全イコールというわけでもないわけ
一方で香取神社祭祀圏は春日部市では元荒川まで突出してます。これは古隅田川が関係してるらしく、「荒川と旧利根川流域 今に至る流路の記憶」によると春日部市梅田より下流の旧利根川の本流は元荒川(本当は星川らしい)に合流する元隅田川。春日部、つまり古利根川(久喜市吉羽〜越谷市増森の旧利根川)と元荒川で囲まれているところ辺りでは古隅田川が国境になっていたみたい。「天体・天文・暦・地図・気象 アラカルト」によると1000年以前の話しだそうです。つまり梅田より下流の古利根川には国境としての効力が無かった。なら、この辺りから茨城に行ったと言えるんじゃないかな
とは言え、確かに旧利根川以西の方は男神っぽいです。尉殿神社が田無神社の妻みたいな感じで、旧利根川以西の方も女神になっちゃうよ的な説明も、確かに違うかと。「田無神社 本殿の美」によるとなんかそういう神話があるとかじゃなくて、谷戸宮山の尉殿大権現から分裂したのを正保三年にそういうことにしたとのことです。「保谷の昔と村人たち」はそれを「古老の伝承」という風にしてますが。現在の祭神は級長戸辺ですが、「尉殿大権現は龍神」だし、正保三年以前の祭神が倶利伽羅龍王なのは確定みたい。「龍田大明神御事」に「一説には国御柱は龍神」とあって、今の龍田大社は国御柱=級長戸辺ってことにしてます。「保谷の昔と村人たち」p47にも「垂迹神は龍田大社の神」とあります。でも、尉殿大権現は龍田信仰の神社っていう古文献も特に無いみたいです
①については、対馬の龍化と摺墨みたいに全国的には龍蛇♂×馬♀の方が多いと思うので、むしろ後世の改変でしょと。女体化なんじゃねーのとは思いますわ
なんでもかんでも文化は西や南からくるんじゃ〜が気色悪いのはわかりますけど…
紫水晶を産出する山梨県の金峰山も蔵王をまつっていて、それでこうなるわけです
十殿様がお姫様なら天疎向津媛は雨宝童子だから16歳、浅間大菩薩は赫夜姫だから16歳、菊理姫は川上御前だから15、6歳。姫は16歳。蔵王権現と習合してるなら蔵王は金剛童子と同体だそうで、八大金剛童子の矜羯羅も15歳。それぐらいのキャラデザにする予定。
よく分からないけど十一面と習合してるならということで、髪型はお団子ツインテにしてみました。服装は寄せるつもり。多頭キャラにすべきか…それっぽい様子は伺えないしなぁ…。福耳、白毫は問題なさそうです。三道もぴんく☆ふぇっへ凛先生の「おばさんの感触」を参考に書けるかも?
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